「人間の作ったもの」と「AIが生成したもの」:人はなぜ人のほうに魅かれるのか

AIと人間の関係について考える中で、興味深い現象があることに気づきます。

それは、私たち人間が「人間が作ったもの」と「AIが生成したもの」を異なる価値で見ているのではないか、ということです。

 

たとえ同じクオリティの作品であっても、それが人間の手によるものと知れば価値を感じ、AIが生成したと分かれば価値が下がる…。

このような心理が私たちに備わっているとしたら、それはなぜなのでしょうか。

先日、AIアートの展示会と地元美術館の学生習作展を続けて見る機会がありました。

 

技術的には明らかにAIアートの方が優れていたはずです。

構図は完璧で、色彩も洗練されている。

 

しかし、来場者が多かったのは学生の習作の方でした。

 

なぜでしょうか。

単に「人間が作ったから」?

 

その帰りにスーパーマーケットに寄ったのですが、同じ野菜でも、農家さんの顔写真がついているものと、そうでないものがあることにあらためて意識が向きました。

 

私たちは、価格が同じなら、つい生産者の写真がある方を選んでしまう。

この「なんとなく」の選択の背後に、なにかの人間心理が隠れているように感じます。

 

私たちは物事の「起源」や「背景」を重視する性質があるようです。

顔の見える生産者への安心感、そこには商品の品質以上の何かへの信頼みたいなものがあります。

 

 

人間の作品には「努力」や「成長過程」という物語が含まれています。

 

たとえ技術的に未熟な学生の習作でも、そこには作者の試行錯誤や情熱が感じられる。

デッサンの線の迷いや、色彩選択の躊躇さえも、作者の人間性を物語る要素として私たちの心に響きます。

 

一方、AIの生成物には、そういった「物語」や「成長の痕跡」が見えにくい(少なくとも今のところは)。

どんなに技術的に優れていても、瞬時に完成された作品には、人間が求める「共感できる苦労」が欠けているのかもしれません。

 

この現象は文章でも観察できます。

同じ内容でも、AIが生成したと分かると読む気が削がれ、人間が書いたと知ると熱心に読んでくれる読者がいます。

情報の価値は同じはずなのに、その背後にある「物語」の有無が読み手の関心を左右している。

 

しかしそうなると、純粋に作品を評価してほしいクリエイターにとっては、複雑な思いでしょうね。

 

天然ダイヤモンドと合成ダイヤモンドの価値観にも通じるものがあります。

合成ダイヤモンドは技術的には天然物と同等、場合によってはより完璧です。

環境負荷も少なく、倫理的な問題もない。

 

それでも宝飾品や投資の世界では、天然ダイヤモンドの方に価値があると見なされています。

地球の奥深くで長い年月をかけて生成されたという「物語」が、その価値を支えているのでしょう。

 

人類学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、著書『サピエンス全史』で、人間は「物語を共有する能力」によって大規模な協力を可能にしてきたと指摘しています。

物事の起源や背景、そこに込められた感情や意図に価値を見出す心性は、人間の社会性の核心部分なのかもしれません。

この洞察は、ビジネスにも重要なヒントを与えてくれます。

AIを活用したサービス開発において、完全自動化を目指すのではなく、あえて「人間の判断」や「感性」が活きる部分を意図的に残す。

そうすることで、効率性と人間らしさの両方を実現できるのではないでしょうか。

 

技術だけでなく「物語」「関係性」「背景」への配慮が、ますます重要になってくるようです。

顧客が求めているのは、単なる機能的価値だけではなく、そこに人間の温かみや配慮を感じられることなのかもしれません。

 

AIが技術的に進化すればするほど、逆説的に「人間らしさ」の価値が浮き彫りになる。

これが現代の興味深い状況です。

完璧すぎるものよりも、少し不完全で人間味のあるものに、私たちは愛着を感じる傾向があります。

 

AIと人間の共生を考える上で重要なのは、単なる効率や正確さだけでなく、「人間らしさ」を適切に組み込むバランス感覚なのかもしれません。

どんなに優れたAIであっても、それを活用する私たちの「物語」が、最終的な価値を決定するのでしょう。

 

 

最後に、興味深い思考実験をしてみましょう。

 

もしドラえもんくらいに人間性の備わったAIロボットが登場して、慣れない人間の料理を、手を焦がしながら一生懸命作ったとしましょう。

人間はそこに価値を見るでしょうか?

 

私は、価値を見ると思います。

 

なぜなら、そこには私たちが最も愛する要素が揃っているからです。

「努力」と「成長」の物語

「愛情」の要素

高度なAIが「下手な料理」を作るという意外性

 

手を焦がすリスクを承知で料理を作る行為は、なかなか心を打ちます。

 

実際、私たちは既に類似の体験で感動を覚えています。

犬が飼い主のスリッパを不器用に持ってくる行為

子どもの拙い手作りプレゼント

高齢者が慣れないスマホ操作で送ってくれたメッセージ

これらはすべて「技術的完璧性」よりも「想い」や「努力」に価値を見出す例です。

 

ドラえもんの火傷しながらの料理は、この「想いの価値」を純粋な形で表現したものになるでしょう。

つまり、AIが人間らしい不完全さを持ち、そこに愛情や努力が込められた時、私たちはそれに価値を見出す。

 

完璧すぎるAIよりも、愛情を込めて不完全な努力をするAIの方に、私たちは深い価値を感じるのでしょうね。